稲生平太郎『アクアリウムの夜』

ライトノベルに関して。



繰り返し流される通俗的な嘘の一つとして、「最近の若者は文字を読まなくなっている(もしくは本を読まなくなっている)」というものがある。所謂「最近の若者」の趣味として、文字を使わないものなんか殆どない。携帯だってネットだってゲームだって、文字を使うものだ。
例えば本や小説にしたって、読む人自体は増えていると思う。ただし、勿論形は変わっていく。例えば携帯小説ライトノベルなどなど。これらのものは
「最近本を読む人はこういういったを好む⇒最近の読者は普通の本を読まなくなった」
というよりは
「昔は本なんて読まなかったような人がこういうものを読むようになった⇒読者層の全体的な拡大」
と考えるべきじゃないんでしょうかね。実際には、良い小説は売れ続けている。村上春樹のような文学的作家がメジャーフィールドで売れている・理解されている国は、多分他にない気がする。



ただ、こういった状況を全面肯定するのにも違和感がある。携帯小説にしろライトノベルにしろ、狭いターゲットを絞って金を毟り取るというオタク商売だ。ここに共通するのは、①共通理解(「萌え」や「感動」)を前提のものとして、②その稚拙さ・技量の乏しさを逆に売りにして、③また支持者が批評を拒否し「好きか嫌いか」のみを問うという状況である。これはまさにジャンルとしての貧困だ。
客観的批評が存在しないものは、評価自体が個人的な、曖昧で相対的なものにしかならない。そのため、過去の良い作品も悪い作品も淘汰されず、消費者が徐々に離れていき、最終的にジャンルはその熱気を失って死滅するという結果となる。最後に残るのは懐古主義者だけだ。彼らは批評というものの存在を理解できないため、単なる印象のみの判断で昔のものを「全て良かった」とし、最近のものを「全て良くない」とする。
この状況は現在の日本製RPG市場を例えとすると分かりやすいだろう。俺個人としては、この図式が将来的にライトノベルにも携帯小説にも当てはめられるだろうと予想している。



だが、一過性のブームが良いものの再評価を伴う場合もある。ライトノベルブームが遺したものの一つとして、この小説を取り上げたい。俺がこの小説を読むきっかけとなったのは、間違いなくライトノベルブームだ。季刊『幻想文学』で著者の方のコラムを読んでいたので買ってみたら、大当たりだった。
この小説は俺にとってベストの青春小説だと言って良いと思う。表面的な筋だけでは、良く出来たホラー小説としか見えないかもしれない。青春小説=恋愛小説だと信じている人にはそう見えても仕方ないのかもしれない。
だが、違う。
この小説の根本にあるのは「哀しみ」だ。その「哀しみ」は、青春というもの自体の楽しい時間が「喪失」してしまうことに由来している(「夏休みの終わり」を想像してほしい)。小説が進むにつれ、主人公の持っていた大事なものは全て失われていく。事件は何も明らかにならない。ぼんやりとして何一つ分からないまま、最終的に主人公は恋人を失う。それは一面では「青春の喪失」であり、同時に象徴的には「思春期からの卒業」でもある。
全ては過ぎ去っていき、勝手に完結してしまう。友人や恋人が最終的に青春という闇の中に留まる(「死」や「消失」はその暗喩である)が、主人公にはそれは許されない。一人取り残された主人公の、懐かしさと喪失感の入り交じった強烈な胸の痛みは、そのまま読者にも強く訴えかけるはずだ。



傑作中の傑作である。強く一読をお勧めする。



最後に知識自慢。
中盤から出てくるチベット旅行〜謎の生物の発見といった話の元ネタは、多分ロブサン・ランパの一連のチベット旅行記(偽作)だと思われる。さらに河口慧海チベット旅行記をディティールだけ利用したのだろうか。この芸の細かさ、本当にさすが!