イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』

私は生まれてからずっと東京で暮らしている。多少は移動があるが、常に中央線沿いという中途半端な都会で生きてきた。勿論キャンプやら旅行やらに行くのは好きだが、それはあくまで日常と乖離した「異物」としてそれを楽しんでいるにすぎない。私の日常は東京と共にあった。
だからだろう、私の記憶は東京と共に存在している。田舎の人に言わせれば東京は殺風景だそうだが、私の目にはそれは非常に美しく映る。といっても、東京タワー・六本木ヒルズのような小奇麗な観光名所じゃない。寂れたビルや早朝の駐車場、夜の高架下など、どこにでもある普通の場所だ。それらの光景は私の中の記憶と結びついていて、見ている私を非常にセンチメンタルにする。
これは本当は寂しい事なのかもしれない(年配の方に現代っ子は単調な都会で暮らさねばならず可哀相だと言われると、そうかもしれないとも思う)。だが、少なくとも私にとってはそれはかけがえのないものであり、私はそれを偏愛している。私は薄汚れた東京が好きなのだ。





私は都市好きで幻想文学好きなもので、そういったジャンルの本があると興奮する。その中でも特に良かったのが、今回紹介させていただく小説である、現代イタリアの作家イタロ・カルヴィーノの著作『見えない都市』だ。
この話には一応筋があるが、別にそれはどうでもいい。読むべきはひたすら繰り返される、世界中の何処にもない都市の物語だ。それらは一つにつき1〜2ページという短さながら、美しい幻想を私にもたらしてくれる。私はこれを読んでいる間本当に楽しい時間を満喫し、読後に少しだけ哀しい気分になる。恐らく、私はこれを読むことで、大都市東京に関する甘美な記憶を繰り返し味わっているのだろう。





この小説は好き嫌いが分かれると思う。だが、都会で人生を送ってきた人なら、このセンチメンタリズムは理解し易いのではないだろうか。理解出来ない者がどう言おうとかまわないが、大都市には確かに広大な謎と魅力を秘めており、それはある種の人間を惹きつける。この魅力が分かる方には、本作は最高の愉悦となるだろう。千円札でお釣りが来る程度の金を払ってこの小説を買って読むことにより、存在しない無数の美しい都市達、記憶の中にのみ存在する都市達を観光する事が出来るのだ。それも好きな時に、好きな時間だけ。これは麻薬的な悦楽である。
一読をお勧めする。