中島らも『頭の中がカユいんだ』

連続して日本人二人目です。何となく。


中島らもと言えば、ある意味非常にポピュラーな作家だとは言えると思う。何せ死後数年たった今(2009年1月)でもジュンク堂に専門の棚がある位ですしね。

ただし、この人の作品には当たり外れが大きい。特に後期の作品には明らかな駄作もあると思う(勿論全部ではない)。アルコールによる脳の萎縮の所為か、氏の創作の元となる体験を使い果たしたか、あまり本を読まなくなったからか、単に才能が尽きたからか。
俺には分からない。幾つかの理由があると思う。



音楽では「アルバム一枚目」のジンクスというものがある。特にHIPHOPやPUNKでは良く聞く話だ。「一枚目は才能とフレッシュさが光る名盤だが、二枚目以降は売れ線に走って駄目になった」という話を何度聞いたか。
同時に「〜〜は一枚目のみ良い」という狭いマニアも結構いる。しかも、長期的に世間的に認められているアーティストに対して「昔は良かったが、今は駄目」という人々が。
この人達が俺はあまり好きじゃない。アーティストの努力と研磨より、マニア的な独占欲を重視している気がしてしまうのだ。
素人の思い切りと才能よりは、売れる為の努力や創意工夫、そして新鮮さの代わりに得ていく経験と深み、それに期待したい。最終的に一発屋が一番良いという結論は、出来れば選びたくないと思う。



話を『頭の中がカユいんだ』に戻す。
これは中島らもにとって極めて初期の、いわば「処女作」と言って良い作品だ。そして悔しいことに、これは抜群に面白い(特に同タイトルの中篇は凄い)。率直に書けば、中島らものベストは俺にとってこれになる。
中島らもは常に努力し続けていたと思う。売るためにギャグを交え、自分の初期の著作の特徴を再利用しようとし、自分の生命や依存症すら売り物にしようとした。中期・後期のいくつかの作品にはそれゆえにクオリティが極めて高いものもある。

だが、それでも、この『頭の中がカユいんだ』という作品の輝きとパワーの前には色褪せて見える。この本には知性と怒りと哀しみと異様な幻想と、そして圧倒的なまでの疲労が含まれている。それはある種麻薬的に脳に働きかけるものである。
これは幻想文学でありながら、その中でも類い稀なパワーを有している。それは恐らく絶望的な疲労から来るものであり、その疲労は恐らく生きることそれ自体から生まれたものではないか。これはまさに「緩慢な自殺」の記録なのだ。
氏はこれを書く際に大量の薬物を使用したそうだが、それも当然だろう。創造的行為である執筆で「緩慢な自殺」を表現するという矛盾をクリアするにはそうするしかなかったのだと思う。そしてそれは圧倒的迫力と、グロテスクで幻想的な描写を生んだ。



この本は面白いが、俺は氏の著作の中でこれをを勧めることに少しだけ疑問意識がある。
その後の氏の為の生き方を考えると、それが安易に見えてしまうからだ。氏はものを書く為に何らかの薬物を必要とした。それは酒であったり、コデインであったり、睡眠薬であったり、大麻であったりした。
氏はそれらに中毒しながら、ただ面白いものを書く為に必死に努力を続けた。そしてそれは直ぐに生きる為の努力になった(ユーモア小説を書きながら自殺衝動と闘うという悲喜劇!)。自殺願望やうつ病、そして酒や薬物の中毒による「緩慢な自殺」と闘いながら、氏はその短い人生を全力で生きたと思う。その努力と苦痛は決して無価値なものではない。
しかしそれでも、この『頭の中がカユいんだ』とは比較出来ない。



氏が良い小説を書くには「生きる為の必死の努力」よりも「死」が必要だったのだろうか。「生きる為の努力」は無駄な努力だったのだろうか。
氏は「この世で生きていくには向かない人間がいる」と言っていた。これは生きることを止めてしまった人への言葉だったと思う。俺はまだこの言葉をうまく消化出来ていないのだろう。

一読をお勧めする。